僕の裡なる自=他意識考

○僕の裡なる自=他意識考

職業柄、人間関係がうまくいかないという苦悩に打ちひしがれている人たちとの出会いも多い。僕は、自分がまったく使いものにならない洞察力しか持ち合わせていないとは思わない。少なくともそういう思い入れがなければ、怖くて他者の苦悩に立ち入ることなど出来るはずがない。だから、たぶん、強引な比較論で言うと、幾分かは問題解決能力を持ち合わせているのだろうという欲目で自分を見るようにしている。

しかし、その一方で、この歳になって、あらためて自=他の関係性を客観視することの難しさを思い知っているとも感じるのである。そもそも僕という人間は、客観という概念性に対して、信頼を置いているのかどうか、という仮説を立てたとき、その仮説に対する答えは、いつも否なのである。たとえば、ある現象が起こるとする。僕は自分の能力の及ぶ限り、多角的に生起している現象を注視しようとする。こういう立ち位置から視えて来る、現象の底に沈んだ本質に関わる事柄を拾い出す。これが簡単に言うと、僕の洞察力の内実である。だが、そこに物事の本質的な深度を量り得るようなスケールのごとき客観性が在るのかどうか、と自問すれば、繰り返しになるが、結論的には、そういうものは少なくとも僕の裡には存在しないと明言出来る。

つまりは、僕の自=他との関係性を捉える尺度は、自己の内なる主観性そのものなのである。主観性とは、自己の経験則から物事を判断する思想的な構えのことだ。そうであれば、自己の主観性の次元の高低は、詰まるところ、主観性のコアーになっている経験則という実体の価値の高低と同義語である。換言すると、僕にとっての経験則の内実に、他者と共有するべき思想がどれだけ取り込めているかが勝負どころである。このことを抜きにしては、自己の本質を語ることなど出来はしない。誤解なきように言っておくが、他者と共有できる領域に入るものを短絡的に客観性、あるいは普遍性などとうそぶくような魂胆は僕にはない。どのように控えめに見ても、僕はこの世界を主観主義的な考えの振幅の現われだという想念から解放されたことはない。むしろ、他者との間で共有し得る想念の全てを客観性とか、普遍性などと定義することの自己欺瞞をいまは怖れている。

自己の想念を言語化することによって、それを客観性、あるいは普遍性という概念で、他者に反論の余地を与えなかったことによって、いかに多くの過ちを犯してきたことか!果たして、僕は、少なくとも今日に至るまでの殆どの時間を、他者の論理を砕くために費やしてきたように思う。他者との議論に敗北した経験を意識化出来ないことが、そのことをよく証明している。当然のことだが、自己の想念が常に正しく、その自己正当化によって、他者を駆逐してきたことで、いったいどれだけ多くの他者との絆を自ら断ち切ってきたか、あるいは、他者によって断ち切られてきたかを考えると背筋に冷たいものが流れ落ちる。<連帯を求めて孤立を怖れず!>という古びたスローガンは、僕の裡でいつしか<孤立すべくして、連帯の絆を断ち切れ!>という内実にすり替わっていたものと思われる。喪失したものの大きさに想いを馳せると、取り返しのつかなさに身もだえするが、少しずつ明らかになってきた己れの思想的誤謬を修正しつつ、生き直す過程で得てきた他者との数少ない関係性は、死守する価値があると自覚しているのである。それでも当然のごとく、孤立し、孤独であることから解放されることはない。ここに書き遺すべきものを、生の総括だと僕は自己規定している。だからこそ、恥多きことこそを書きこぼさないでおきたいのである。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

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